スマホでマガジン
マガジン ブラウジング、立ち読みが好きです。
でも今は電車の中で立ち読みができます、それが楽天マガジン。
pen、Casa、Tarzan、ELLE、VOGUEといった僕の定番から東洋経済、Aera、ポスト、現代に至るまで11ジャンルと多岐にわたります。
そんな中で週間現代に面白い記事を二つ見つけました。
一つは「誰がアパレルを殺したか」 もう一つが「ZOZOTOWN社長の異形の履歴書」
「死」に向かうアパレル産業
今業界で話題になってるらしい「誰がアパレルを殺すのか」という書籍。
週刊現代の特集「誰がアパレルを殺したか」はこの書籍を参考にしている。
記事を要約すると日本のアパレル業界が壊滅的になったのは、劇的な消費者の価値観の変化についていけず近視眼的な対応を繰り返してきた結果としている。
どうもその根底にはインターネットの爆発的な浸透を見逃すことはできない。
それまで服飾は自己表現の最大の武器の一つだった。
ところがインターネットの劇的な広がりにより誰もが簡単に個人情報を発信することが可能になり、それまでニッチだった個人の趣味が同じ趣味を持つ人たちとのネットを通じてメインストリーム化し自己表現の表舞台に現れてきた。
つまり自己表現=服飾という構図の崩壊。
それまでファッションをリードしてきた女性の社会進出も大きいという。それにより服は「ファッション」から「生活用品」に変わった。
これにより服飾よりも機能に価値が移り会社もクールビズやフライデーカジュアルなどでそれを加速させた。
この流れに応えるようにデザインはベーシックながら品質も良く低価格のユニクロのような企業、ZARAのようなファッション性が高いながらも低価格なファストファッションが多くの支持を受けるようになった。
この間三陽商会、オンワード樫山、ワールドなど日本の代表的なアパレル産業はヨーロッパの高級ブランドのようなブランドアイデンティティを目指すわけでもなく、かといってユニクロのようなコスパの高い製品に舵を切ったわけでもなく、絵に描いたような中途半端を繰り返した。
さらに社会進出で時間のなくなった女性たちは百貨店に足を向けずにネットのzozotownを覗いてお気に入りのファッションを見つけて購入し、サイズが合わないイメージが違う際にはフリマアプリのメルカリで販売するというのがご時世。
こういった劇的な消費行動の変化に対応できずに、十年強の間に2/3の10兆円台まで市場が縮小した原因だとしている。
年間670万人が購入するZOZOTOWN
僕は利用したことはなくてもアパレル業界のchojolyも利用するzozotown。
週刊現代の特集は「誰がアパレルを殺したか」の次に「ZOZOTOWN社長の異形の履歴書」という題目でインターネットのファッッション通販の雄を特集してた。
zozotownの営業利益はすでに三越伊勢丹ホールディングスを抜いていて、「ファッションの伊勢丹」を擁する同グループの利益を抜いているということはバーチャルとリアルの両方で一番ファッションに強いベンダーはzozotownといえる。
このzozotownを運営しているのがスタートトゥデイという会社で1998年創業の会社。現在の株式時価総額は1兆円。
この会社を一代で作り上げたのが社長の前澤友作氏。
1999年 ビットバレー
1999年頃渋谷に夢多きITベンチャーが集まり出し、アメリカのシリコンバレーにあやかって渋谷をBitterとValleyにかけてビットバレーと呼ぶようになった。
僕も2000年に渋谷にITベンチャーを立ち上げた。
この頃のITの雄は云うまでもなくyafooであり検索のポータルとして君臨していた。
だから検索の土俵で勝負しようという勇猛果敢な猛者はいなく、僕も含めて検索以外のサービスにその活路を見出そうと皆昼夜を惜しまず心血を注いでいた。
その中には僕の立ち上げた会社から徒歩で行ける代官山に称号を変更したばかりの楽天が僅か13店舗で始めたインターネトショッピングサービス、楽天モールもあった。
ビジネスモデル特許
実は僕はビジネスモデル特許を複数持っている。
ビジネスモデル特許とはビジネスに関わる方法の特許で一般的にはコンピュータやソフトウエアを使ったビジネスの方法に関わる発明で、有名なのはアマゾンが持っているワンクリックやグーグルのページランクがそれにあたる。
僕の持つビジネスモデル特許の一つ、いやもう放置してるので今は特許権のないそのビジネスモデルはインターネット上で同一商品、サービスの最安値を見つけるビジネスモデル。
価格ドットコムというサイトがあるが、ここのサービスはこのサイトと契約している企業の中での最安値を見つけるサービスであり、ネット上の価格比較ではない。
しかし僕が発明したのは契約の必要もなく、国も問わずインターネット上にアップされている中で、同一商品を価格ごとに検索出来るサービスで、つまりインターネット上に発信されているもの全てを対象とした「価格」に特化した検索サービスで、ネット上の最安値を見つけることができる。
これは今現在でも実現されていない。
この画期的なサービスの実現で世の中を変えたいという強い思いでビットバレーに会社を立ち上げたのが2000年、そう16年前だった。
この頃、IT業界向けのとあるマガジンからこの「世界最安値検索サービス」として我が社は取材を受けた。
今後注目されるインターネットサービスの特集の中の一記事として僕が開発展開しようとしていたサービスが選ばれたと記憶している。
その特集には今をときめく三木谷氏率いる楽天、そして前澤さんが創業したZOZOTOWNも掲載されていた。
だが結果僕のサービスは取材はされたものの、まだサービス開始前だったので彼らとともにその雑誌に載ることはなかった。
フォトシネマ
この世界最安値検索ビジネスモデル、なかなか画期的なアイデアだったようでビジネスモデル特許申請のお手伝いをしてもらった法律事務所から日本以外の国々への特許申請を強く勧められた。
しかし一国での特許申請には一千万円以上必要で、当時検討先として考えられたインターネットの先進国の総数が十数か国。つまりこの世界で使える特許にするための費用だけで一億円以上を必要とした。
さらにこの特許、画期的な分システム開発に億単位が必要なことがわかってきた。
そこでこの世界最安値検索サービスのシステムを開発しサービス開始をするために、その開発費を稼ぐ必要に迫られた。当時はクラウドファンディングなどという便利なものもなかった時代。
そして開発したのがwebアルバム。
これは簡単に言うとスマホの写真、いや当時はガラケーだから写メと呼んでた。
この写メを指定のメールアドレスに添付して送信すれば、それらが自動的にアニメーション化されてフォトムービーになるというシステムを作った。
ペコリに愉しみを感じていた今から3、4年前かな?に自分の作った料理の写真やペコ友の力を借りてクリスマスイメージの料理を作ってもらい、それらを使ってフォトシネマを作ったがそれの簡易版を自動で生成するシステムと思ってもらうといい。
ウエディングに最適
このシステムのターゲットはウエディング。
結婚式の参加者が皆生涯に一度の一大イベントをデジカメや手軽な写メに撮り納めていた。でも共有方法が今とは比較にならないぐらい難しかった。
その時代にメール添付だけで共有できるだけではなく自動でフォトシネマまで出来上がるこのサービスには、浦安にある世界一のテーマパークも興味を示してくれ商談となった。
それと結婚式に尋常じゃないイベント性を組み込むのがお隣の国、韓国。
たまたま韓国に強いコネクションを持つ知合いがいて、その知合いを介して韓国でもこのサービスを展開する方向で話が進んだ。
しかもこの韓国でのパートナーが絶対的な信頼のできるお家柄の実業家。
ジョイントで世界最安値検索サービスもスタート?!
しかも良い方向に歯車が回ってる時はそれが加速するようで、どこから聞きつけたのか、多分申請された特許を調べてのこと、世界最安値検索サービスについてジョイントしたいと申し入れが超有名IT企業からあった。
正直、事を慎重に進めないと簡単に飲み込まれてしまうぐらいの巨大企業だった。
時はまさに、韓国でのフォトシネマサービスの展開のために我が社の韓国支社を作るその準備に入っていた頃。
僕のビジネスモデル特許を使ったサービスを展開するための、その開発資金作りのために作り上げたフォトシネマが国内と韓国の二国でスタートさせようと準備している時に、それらを不要にするようなオファー。
社内でもその対応に喧々諤々の日々が続いた。
好事魔多し
そんな時に起きたのがリーマンショック。
正直、金融界の人間ではなかったので大事だろうとは思っていたが、それが自分の人生の未来予想図まで書き換えるほどの大事件だったとは感じなかった。
しかしこの金融危機は震源地のアメリカ本国以上に日本に大きな被害をもたらした。
それまでトントン拍子で進んできた商談やジョイントの話も全て一旦無期限に中断。
それでなくても「失われた二十年」の渦中の日本は、ますます内向きの経営になりイノベーションよりも基礎体力が注視される経営環境になった。
世の中の潮目は明らかに変わってしまった。。。
運も実力のうち
あのリーマンショックの後、僕は自分の未来予想図を大幅に書き直した。
でも書き直すことなく、いやもっと拡張した未来予想を書きそれを着実に実現したのが楽天の三木谷氏でありZOZOTOWNの前澤氏。
ほぼ同時期にITベンチャーの多くの起業家がいた。
皆んなが各々のユニークなアイディアを形にすべく情熱を持ってまさに寝食を忘れて仕事に没頭していた。
運も実力のうちと云うが最大限の努力を継続したものに運がつくということだろう。
かつて母から教わった言葉がある。
「運」とは「運ぶ」と書く、「来る」とは書かない。
だとすれば「運」が向くためには先ず「運」のあるところまで自分の足で出向いてき、そこから「運」を自分の場所まで「運んで来る」しかない。
もしも何もしなくても「運」(ウン)がつくようだったら「運」(ウン)とは呼ばずに「来る」と書いて「来」(コン)と言ったはず、と。
三木谷さんや前澤さんはまさに「運」のある場所に出向き、その「運」を自らがいる場所に「運んだ」人たちだと思う。その努力を継続しやり遂げた人たちだと思う。
僕もその努力をしたが、今にして思えば何かが足りなかったのだ。
夏草や 兵どもが 夢の跡
リーマンショックから9年、もう一昔前のことになった。
自分を取り巻く環境が短い時間の中で激変し、その荒波を何とか逃れて今に至る。
それはまさに命からがらだった。
今でも渋谷や品川の僕が立ち上げた会社のそばを通ると当時を思い出し、松尾芭蕉のこの句が脳裏をよぎる。
夏草や 兵どもが 夢の跡
母の教えも含めて、僕が心血を注いだことを覚えておいて欲しい。
娘たちへ