年忌法要

 

 

十三回忌と二十三回忌

父は三月三月二十七日、母は四月二十日が命日です。

早いもので今年で父が亡くなって十三回忌法要、母が亡くなって二十三回忌法要の年忌法要を迎えます。

 

そこで今回の法要はお寺様に出向いて、和尚様の読経の元で追善供養をしていただくことにしました。

ただ計画した日は天気予報で春の嵐。。。

でも当日、朝は雨風もありましたが、お昼前には雨も上がり空模様も落ち着いてきました。

 

 

 

 

 

母が亡くなった時娘たちはまだ小学生、父の時は大学生でした。

その娘たちも数年前にchojolyは生涯の伴侶を見つけ、jijottyもこの春から新しい職場で働いています。

 

こういった報告も全て仏前で行わなければならないことに寂しさを感じないといえば嘘になります。

しかし、形あるものは崩れる、命あるものは絶える。

この森羅万象の真理からすれば致し方のないこと。

 

まずは家族揃って年忌法要をすることが出来たことへ感謝です。

 

 

 

偲ぶ会

例年ならば自宅からほど近い馴染みの料亭で偲ぶ会を行いますが、今回は年忌法要でお寺様まで出向いたので違う場所でやることにしました。

ということで銀座。

 

今回はのどぐろの専門店での会食を選んでみました。

 

 

 

お寺を後にして銀座に移動し、偲ぶ会の会場に選んだ店に行きました。

 

地下一階にあるこの店は、予約の段階で五人向けの個室はないということで、半個室のようにスペースを仕切ってもらうことになっていました。

 

お寺での年忌法要に初めて出てくれたchojolyの夫君も勿論参加です。

 

 

 

何度か訪れた金沢。

多分そこで何度かは口にしているはずののどぐろ。でも、あまり印象がないのです>_<

 

知り合いの和食の板前さんに聞いても、のどぐろの正式名称、アカムツは高級魚で刺身は白いトロのようだし、焼いたらその上品な脂が絶品、と聞いていました。

 

そこで、金沢まで出かける費用と時間を考えて、年忌法要の偲ぶ会でのどぐろメインの会食にしたのです。

都内では唯一の、のどぐろ専門店とのことでした。

 

まずは、義理の息子はモルツ、僕はノンアルコールのビール、他はウーロン茶で偲ぶ会の開催で献杯「いただきま~す」

 

 

 

 

前菜は季節の小鉢で、富山県産のホタルイカとスナプエンドウでした。

 

ホタルイカは茹で加減が絶妙で、生臭みを完全に消しながらもほんの少しレア。上品な酢味噌と相まって美味しくいただきました。

スナップエンドウはシャキッとした歯ごたえに鮮度を感じました。

 

 

 

 

 

本日供されるのどぐろを、桐箱に入れて見せに来てくれました。

説明では、のどぐろといえば金沢のイメージが強いですが、この時期は脂ののりや大きさでは長崎県対馬で獲れるものが最良とか。そしてその対馬さんののどぐろがこれです、ということでした。

 

確かに身厚で30cmはあろうかというのどぐろは、目を見ても鮮度が分かる大物でした。

いやがうえにもボルテージがあがります^ ^;;

 

 

 

お造りは鮮魚五点盛り。

そのメインはいうまでもなくのどぐろ。食感の違いを楽しんでもらうために、薄造りと厚切りを用意しましたのとのこと。

 

雲丹は北海道産、鮪は千葉県勝浦のもの、牡丹海老も北海道産とのことでした。

 

説明に従ってまずはのどぐろの薄造りを藻塩で食べてみたのですが。。。

その淡麗な濃厚さ?!にびっくり! 相反する言葉ですが脂にしつこさはなくまさに淡麗、しかしその脂が口の中に広がると、まるで大トロのそれを彷彿とさせるような濃厚さ。

 

雲丹は上質そのもの。

まるで利尻島で殻から食べたそれや、岩手県種一産の高級雲丹と同じ甘さ、食感でこちらもびっくり!

 

鮪も赤身のうまさが際立ってましたし、牡丹海老も鮮度の良さでしょう、しっかりした身のがごたえとねっとりした甘みが尾を引きました^ ^

 

 

 

 

そして焼き物は待望ののどぐろの塩焼き。

知り合いの板前産から、和食についても教えてもらっているので、魚の焼き方、焼き加減の難しさは、自分なりに理解しています。

 

写真からもわかるように、ほとんど焦げ目が付いていません。なのに皮はパリッパリなのです。

特に厚みのある魚は頭に近い部分は火元に近く、尾の部分は遠く焼き加減に技を必要とするのですが、こんなに綺麗な焼き目には、そうそう出会えません。

 

身に箸を入れてみると、しっかりした手応えながら身から脂が溢れてきます。

鯛のようにしっかりした白身ながら、比較にならない脂を含んでいて、かといって脂の強い金目鯛やキンキのように、身が緩くもない、まさにのどぐろ特有のものでした。

 

口にしてみると、刺身で体験した脂が熱でより甘みを増して、口の中に広がり、身の噛み応えもしっかりしています。

なるほど。。。教えられたようにのどぐろは刺身と焼き魚で体験すべきです。

 

それにしてもこののどぐろの姿焼き。。。美味しすぎます^ ^

 

 

 

お造りで供された牡丹海老の頭は、綺麗に掃除されてから素揚げにして再度供されました。

まるで煎餅のようにカラッと揚げられた海老の頭は、絶妙な塩加減と相まって美味しかったですね。

 

 

 

 

 

揚げ物はのどぐろのすり身と筍の薩摩揚げという、刺身で食すべき食材を練りものにした、これまた贅沢な一品。

 

摩り下ろしの生姜でいただいたのですが、できればこれはそのままがいい^ ^;;

生姜の味が強いので、すり身ののどぐろと筍という旬の食材の繊細な味わいの影が薄くないります。

 

そんなことで僕は生姜なしで楽しみました、上品な美味しさでしたね。

 

 

 

食事はのどぐろ飯。

これがそのままとお出汁をかけた出汁茶漬けの、櫃まぶし風二通り(櫃まぶしは三通りですが)の楽しみ方ができますとの説明。

 

説明する間に五人分ののどぐろ飯をよそってくれました。

 

のどぐろの出汁で炊かれた炊き込みご飯のうえに、軽く炙って脂が滲み出してるのどぐろを乗せ、そのうえに薬味の大葉と茗荷が乗ります。

説明を聞いているだけで間違いのない味とは思っていましたが、その通りでした。

 

鯛飯よりも旨味の強い炊き込み御飯に、魚よりも牛肉に近いぐらいの脂ののったのどぐろ炙りの相乗効果で至高の味です。そして淡麗な脂なので、しつこさが全くありません。

 

二杯目はお出汁をかけていただきましたが、濃厚度合いはさらに上がります。

お出汁ものどぐろからとっているとの説明だったので納得。ここでも淡麗な脂のおかげでしつこさは全くなく、するすると消えてきました^ ^

 

 

 

甘味はわらび餅。

和食の食後の甘味としては、フルーツよりも供されるほうじ茶によく合いますね。

 

 

 

 

知り合いの板前さんに教えられた、のどぐろの刺身と焼き魚の双方を楽しむことができました。

更には、すり身の薩摩揚げ、炊き込み御飯と上に乗せられた炙り。まさにのどぐろフルコースを楽しませていただきました。

 

店の接客も洗練され過ぎず、されど丁寧で、温かみのあるものでした。

丁寧な食材の説明には、食材への自信と美味しい食べ方で楽しんで欲しいという思いが感じられました。

 

タイミングよく交換されるおしぼり、同じくタイムリーに供されるお茶におもてなしの心を感じました。

わらび餅が苦手というchojplyへのバニラアイスへの笑顔での変更対応など、食材に自信、お客様第一の姿勢を随所に見ることができ、お陰様で話も弾み、本当に良い偲ぶ会になりました。

 

ご馳走様でした、心から有難うございました。

 

 

 

追善供養とは

七回忌の年忌法要行以降、年忌用法以外は我が家で執り行うようになり、御寺様での法要は久しぶりでした。

住職にきっちり追善供養をしていただいた後に、頂く講話(説法)も楽しみの一つです。

 

今回も供養についてお話をいただきました。

 

供養とは、無条件で誠を尽くすこと。

ただただご先祖さまあっての今の自分です、有難うございます、心から有難うございます。と誠を尽くすのが供養であると仰っていました。

 

時に人はお墓を守ってるから、自分を守ってほしいなどと供養に取引を持ち込むが、これは大間違い。

 

なぜなら自分には両親あり、その両親にも両親あり。。。。これを40代遡るとその数は。。。1兆1千億を超えます。この天文学的な数字のご先祖さまのご縁の連続があって今の自分がある。

 

それを思うと自分の存在が奇跡のご縁で生じていることがわかる、その奇跡にただただ感謝することが供養ということでした。

 

この本筋をわきまえた上で、ついでに、もしよければで家族や個人の幸福をご祈念することは悪いことではない、と。

これを僕は「本質を知る」「正当を覚える」に通じるものと感じました。

本質を知れば応用が利きます、正当を覚えれば略式ができます。

 

まずもって、無条件に誠を尽くす。

この本質を忘れずにしたいものです。

 

 

 

 

実は、お寺さまを後にして車で移動中、前回(つまり母の17回忌、父の7回忌)でも同じ話が出たね、と娘たち。

云われると確かにそうかもしれませんが、大切なのは「思い出すこと」ではなく「覚え続けてる」「実践している」ということです。

 

僕は今まで「無条件で」が抜けてました、忘れてました、実践していませんでした。

早速、明日の朝の読経と参拝から、「無条件で誠を尽くす」を実践します。

 

 

 

 

 

かつてITで世の中を変えたいという目標に向かって、寝食を忘れて働いていた頃、人間は肩書きが上がれば上がるほど自分を見失いがちになる、なぜなら誰も苦言を呈さなくなるからと教えていただき、利害なしで講話や説法として苦言を呈してくれる座禅会に通ううようになりました。

 

五十代になり今の仕事環境になってから久しく座禅会から足が遠のいています。

 

でも、理由はどうであれお寺に出向き、和尚さまから講話を頂戴すると、日々の生活の中で忘れていたもの、できれば直すべき行いと心遣いに気づかせてもらうことができます。

 

自分の日々の行動を和尚さまが知る由もありませんから、和尚さまはその時々で感じたことを話されてるに過ぎません。

しかしなぜか、話の中には自分に向かって話されたこととしか思えないようなこともあります。

これは多分受信側、つまり話を聞く側の心の姿勢が違っているのでしょう。

 

ことのときの受信側、つまり僕の心のページは白紙で真っ白で「とても素直な状態」だと思います。

だから和尚さまの話も素直に入る。

 

しかし話してる相手が和尚さまじゃないと、そうはいきません。決して素直とはいえないでしょう。

多かれ少なかれ損得、利害、好悪のフィルターがかかります。

 

誰の話でも、和尚さまの話に耳を傾けるがの如くしなければいけませんね。

 

 

 

 

かたよらない心

とらわれない心

こだわらない心

 

毎朝、読経の後に唱えてる言葉ですが、この心をもって聞き、見ることが欠けていたようです。

 

ありのままを見る、そのままに聞くということと、判断することは違います。

まずは現象はありのままに受け入れるように心がけたいものです。