リュウマチ

 

 

リュウマチ 1

事の始まりは腰痛だった。

 

家内が腰が痛いといいだしたのは2013年の晩夏から初秋にかけて。

丁度二世帯住宅として建てた実家の二階部分を友人に貸すために車で出かけた時の事だった。

 

汗ばむ夏に腰が少し重いといっていたがそれが腰痛に変わった。

助手席に座っている事自体に苦痛を感じるようで何度も姿勢を変えていた。

僕は彼女に大学病院で精密検査を受けるようにいったのだが、妙に我慢強い彼女はマッサージや整骨院という東洋医学の方法を選んだ。

 

しかし一向に改善の兆しをみせない病状の他に身体の強張りを感じは始めていた彼女自身も思うところがあったのでろう、自宅近くの総合病院で自らその疑いを持ち始めていたリュウマチの検査を受けた。

 

結果は「白」だった。

ネットでリュウマチの恐ろしさを調べていた彼女にとってリュウマチの疑いはないという検査結果は、腰痛や強張りはあるものの彼女が想像する最悪の事態は免れたとの思いから心は軽やかになった。

 

しかし腰痛はその後ますます進行する身体の強張りや握力の低下へとその症状を広げていき、いよいよセカンドオピニオンの必要性を訴えてきた。

 

まだ多忙だった自分の仕事を思い彼女は自力で二つ目の病院を選んだ。

幸いなことに自宅からそう遠くない場所に無二の親友が住んでいたので、彼女はその親友の助けを借りてリュウマチの治療では首都圏でも有名な横浜にある聖マリアンナ医科大学病院に助けを求めに行った。

 

 

 

僕は勤務中電話で検査結果を聞いた。

 リュウマチみたい。。。ごめんね、本当ごめん」

 

 彼女の言葉が遠くに感じた。

「そう。。。でも平気。必ず良くなるから。二人三脚で頑張ろう」

 

 なぜか感情が大きく揺れ動く事はなかった、まるで事態を想定していたように。

それは僕の今までの経験によるものが大きかったように感じる、僕の人生の半分は家族の闘病生活と共にあったから。

 

 

そして静かな強い決意の中で生活が一変していった。

 

 

それまで彼女は都内のとあるアンテナショップでパートをしていたが、彼女の性格と経験から現場ではとても大事にされていたがそこを辞めた。

アンテナショップだから業種は販売、お客様最優先の接客業に定期的な時間割はない。

勢い昼食をとらなかったり食べても時短を意識してカップ麺などのインスタントものが多かった話は聞いていた。

 

まず僕が出来ることはそこからだと思った。

今の自分の体は半年前に食べたものから出来ているという話を聞いたことがあり納得もしていた。だから食生活の改善を考えた。

日を追うごとに体が強張り動くこと事態ままならなくなりつつある彼女に、食事の準備も含めた日常的なことは無理。

僕が担うしかない。

 

仕事でも数年来の大きなプロジェクトがその年の夏には終了を迎え残務処理的なものが多く出張も少なくなってきた時期だからこそ、彼女の昼食兼ねた自分の弁当作りができると思った。

プロジェクトの終了に伴い残業も無くなったので晩御飯を作ることにも可能になった。

 

2013年の11月ぐらいからは寒さもあって彼女は体の強張りや握力の低下のみならず段差のある歩行にも多少の障害を感じるまでに悪化していった。

 

仕事もほぼ定時で帰れる流れを組みそれまでの生活が一変していったのは12月の声を聞いてからだったと思う。

 

起床は5:30

そしてその日の朝食のスムージーと僕のお弁当兼彼女の昼食を作る。

それからいつも通りシャワーを浴びて彼女の起床を手伝ってから一緒に朝食をとる。

時間の都合で珈琲は珈琲メーカーで作った。

朝食が終わると神棚、お稲荷様の参拝と仏壇で読経合唱ののちゴミ出しをしながら出勤。

 

 職場では同僚やスタッフが愛妻弁当と勘違いしてる自作の弁当を食べる。

 

退勤時刻を過ぎるとなるべく早く退勤した。

過去の仕事量を知っているから当初スタッフは驚いていたがそれもつかの間。

退勤後はスーパーに立ち寄り食材を買って自宅に戻って夕飯の準備をした

ご飯は朝のうちにタイマーで準備をしていた。

 

食後の後かたずけが終わると彼女をお風呂に入れてあげないといけない。

何せ腕が上がらなくなってきていたから洗髪は勿論体を洗うこともままならなくなりつつあった。

 

部屋の中のレイアウトも変えた。

お風呂の椅子もネットで最も座高の高いものを手に入れたし、彼女の腕の動く範囲に食器類を移し替えなるべく軽いものに変更した。

 

また少しでも家事を手伝いたいという彼女の思いの一助になるように掃除用具はすべて柄の長いものに変えた。

2014年の2月頃にはかなり悪い状態になりしゃがむことはおろか腰を曲げることにも支障が生じてきたので落し物を拾うための火箸を用意した。

 

思えばこの時期が最も容態が悪化した時期だった。

 

 

 

リュウマチ Ⅱ

リュウマチとは本来細菌やウイルスなどの外敵から身体を守る免疫が異常を起こし、自身の身体の関節や骨軟骨などを外敵とみなし攻撃し炎症を起こし、骨や軟骨が壊れていく原因が特定できない難病で西洋医学では完治できない病とされている。

発病比率は1:4で女性の方が多く細菌やウイルスの感染、過労やストレス、喫煙、出産やけがなどをきっかけに発症することがあるとのこと。

 

発病してしまってからでは原因を求めるよりも完治寛解を目指すべき。

僕もリュウマチについて調べたが一番苦しんでいる彼女が書籍、ネットを使って沢山調べていた。

そこで決めたことは治療に関しては彼女の意向に従うということ。

 

二回目以降、彼女の通院には有休を取って僕が聖マリアンナ医科大学病院に連れていった。

この病院にはリュウマチ科があって多くのリュウマチで悩む患者の方々が通院しいるのを目の当たりにした。

彼女の話から産後に発病した30代の女性の話や、発病してすでに数十年が経過し手の指が変形してしまった女性の話などを聞いた。

 

リュウマチにおける治療方法というのは一定のルールがあるようだった。

最初にリウマトレクスという免疫抑制剤を投与、これで関節の炎症を食い止めることを狙う。

 

家内の場合、2013年の10月にセカンドオピニオン聖マリアンナ医科大学病院リュウマチと診断されすぐにこの薬剤が投与された。

リウマトレクスは初期のリュウマチには特に有効でこの薬で寛解状態になるといわれていたが、ファーストオピニオンでリュウマチではないと診断されたためリュウマチと診断されるまでの間に病が進行してしまった。

 

それが主因とは断言できないが残念ながらリウマトレクスの効果は検査数値からも見受けることができなかった。

 

そこで2014年になってか主治医から生物製剤の投与をすすめられた。

生物製剤とはバイオテクノロジーを駆使して生物が生産したタンパク質を使って作られる関節破壊を引き起こす原因物質の抑制に有効な注射薬。

これでリュウマチ治療は飛躍的な進歩を遂げたらしい。

 

彼女の意向もあり生物製剤の投与を決めた。

 

ただし問題があった。

それは今の世の中の流れだろう、主治医から複数の生物製剤から使用するものの選択を迫られた。

医学の知識もない患者にそれをさせるのは無理難題と感じたが、生物製剤は身体に合成されたタンパク質を投与する、いってみれば異物の投与。

これには予想もできない副作用が生ずる可能性も否定できない。

となればそれらのリスクを鑑みると、自己責任の見地からも投与する本人に選択させるということも分からないわけでもない。

 

それからというもの帰宅してから列記された生物製剤について可能な限り調べ上げた。

効果もさることながら副作用の危険性について特に調べ可能な限り実際に使用した人達の意見を探し求めた。

 

その結果生物製剤は二つに絞り込まれた。

その二つについて彼女と二人で深く話し合い、結果オレンシアという生物製剤に賭けてみることにした。

 

 

 

彼女は無用な心配をしていた。

なぜなら生物製剤は決して安価なものではない、自分の病のために経済的な負担をかけるのではないかと。

効果があって寛解に向かい生物製剤の使用も一定期間で済むならいいが、生涯この薬とお付き合いしなければならないとなると経済的負担はそれなりなものになる。

 

自分の身体に支障が生じてるにも関わらずそんな事を心配してくれる彼女。でもそこは違う。

彼女がリュウマチとわかった時の第一声「リュウマチみたい。。。ごめんね、本当ごめん」

あの時僕は決心したし肚を決めた。

彼女と二人三脚でリュウマチを直すことを自分の人生の当面の目標にするし、それを最優先にすると。

 

だから経済的負担は二の次。

リュウマチ寛解に向かうために最良と思えることをやるだけのこと。

 

こうして彼女への生物製剤の投与は2014年3月から始まっていった。

 

後でわかったことだが生物製剤の効果が現れ出すのは投与開始後半年ぐらいからとか。

 

生物製剤を使うということは異物を体内に入れることであると認識していた彼女。

これまでの五十数年の人生で病気らしい病気をしたこともなかった彼女にとって、今回のリュウマチ発病は人生初の大きな病でありそれ故不安の大きさは容易に想像できる。

そんなこともあり生物製剤投与という副作用のリスクを伴う治療方法には言葉でいい表せない不安があったようだ。

 

主治医から投与前にきっちりと説明を受けていた彼女。

生物製剤投与後は倦怠感が数日続くこともあるとの説明にも理解はできても未知なる体験への恐怖を払拭することは出来ないようだった。

 

倦怠感はすぐに現れた。

初めて生物製剤を投与した日の帰り車中で少し気分が悪くなってきた。

 

それまでは通院の帰りは外で夕食を済ませてから帰宅するのが常だったがこの日は食欲がないとのことですぐに帰宅し、そしてそのままベッドに横たわってしまった。

このような倦怠感が生じる場合があることを事前に知らされていたので静観することができたが、知らなかったら容態急変として病院に引き返してもおかしくないぐらい身体がだるそうだった。

 

しかしこの症状は日を追うごとに軽くなり三日目にはほぼ普段通りとなった。

そして驚きはその後だった、なんと関節痛がかなり楽になってきたというのだ。

身体の強張りや握力の低下に変化はないもののそれと同時にあった身体の節々の痛みがはっきり減少したという。

彼女の場合初回からはっきりわかる効果をみせた。

 

痛みの減少は翌月の通院時の検査結果にも数値としてはっきり現れていた。

数ある検査項目の中でも炎症を示す項目の数値に目を見張る改善がみられた。

彼女はとても喜び僕も彼女とのリュウマチの戦いに一筋の光明を見出した気がした。

 

 

しかしそれと引き換えにオランシア投与後の彼女はまた極度の倦怠感にさいなまされる日が続くこととなった。

 

 

 

リュウマチ Ⅲ

オランシアの投与から数ヶ月で彼女の検査数値は項目によっては飛躍的に改善していった。

特に炎症に関しての改善は著しかった。

ただその他の数値は改善に向かっているという表現があっていたかもしれない。

 

どちらにしても状況はいい方向に向かっていた。

ただ彼女の中に払拭しきれない不安が内在していた、それは生物製剤による副作用と倦怠感。

 

副作用はいつどんな形で現れるかわからない分不安の深度は深かった。

そして倦怠感。

これも二、三日の我慢といえば、それまでだが今までに経験したことのない強度な倦怠感はそれが身体に異物が入ることから生じるという原因がわかっている分、彼女にとってそれは一種の副作用だった。

 

今はこの倦怠感が数日で過ぎる一過性のものとして現れてるから我慢でやり過ごすことが出来る。

でもこれが長期化するようになれば身体の強張りや関節の痛みと同等、時にはそれ以上の苦痛になることへの恐れがあった。

 

日々iPadリュウマチについて調べてる彼女はその多くの情報の中から薬に頼らない、西洋医学によらないでリュウマチを克服した事例も持っていた。

その西洋医学に頼らずにリュウマチを克服した女性は産後に病を発症した。

そして西洋医学では完治しないことや薬の副作用へのリスクを考えて、薬剤に頼らずに病を克服したらしい。

 

彼女はネットで方法を公開していて、さらに書籍も出版していた。

 

家内はオランシア使用後の劇的な数値の改善には心から喜んだが、生物製剤を使い続けることへの不安をこの薬剤を使わずにリュウマチを克服した女性の考え方や方法にその解決策を求めるようになってきた。

 

ことあるごとに彼女がいかにして薬に頼らずにリュウマチを克服したかを話し、彼女が書いた書物を読むことを勧められ実際に読んだ。

 

 

 

 

治療方法は彼女の考えを最優先にする。

これは僕が最初に決めたことだった。

ただし最終決定は彼女の意思に従うにしてもそれまでの経緯にはとことん話し合うことが必要なのはいうまでもない。

 

僕自身が東洋医学に懐疑的なわけではない。

むしろ好意的で一部には確信的な見方をしてる施術方法もある、それは自分の体験からきている。

 

しかし今現在西洋医学でのリュウマチにおける最先端の薬の投与で検査項目の各数値が改善を示してるし、炎症に関しては目を見張る改善だ。

自分が経験していないから軽はずみなことは言えないが、オランシア投与による倦怠感も一過性。

 

それらを総合判断するとせっかくオランシアという有効な薬と出会ったのに、それを効果がではじめた段階で止めてしまうのはいかがかものか。

数ある生物製剤の中から二人で調べに調べてあたかもクジでも引くように選んだオランシア。

これが他の生物製剤を選んでいたら果たして今の効果が現れたかは全くわからない。

 

聖マリアンナ医大に導かれたのもオランシアを選択したのも自分たち以外の見えざる力でもあったかも知れないと感じるほど発病からの約半年で劇的に改善したのだ。

 

そういうことを考えると病状が好転した状態を崩したくないというのが自分の本音。

そこで二人でじっくり話し合った。

 

この頃の彼女は痛みは激減したとはいえ身体の強張りや握力が回復したわけではなかった。

相変わらずベッドに眠る際も起きる際も僕の介添えを必要としたし、ソファーから立ち上がるにも手助けが必要だった。

 

自分も毎朝5時半起床で始まる生活にも慣れてきていた。

朝食、自分の弁当作りを兼ねた昼食作りに晩ご飯の支度まで全て僕が担っうことにも慣れていった。

日々の買い物は休日の午前中におおよそ週の前半部分を見越してスーパーで行い、それ以降は帰宅の際にことを済ませた。

トイレだけは自力で頑張れるようだったがお風呂も手助けが必要なのに変化はなかった。

 

彼女が担ってくれてたのは洗濯。

これは全自動洗濯機に洗濯物を入れてあとは洗濯機任せにできるので助かった。

ただしアイロンがけは彼女では無理だったので僕がやったり、休日を利用して見舞いがてら交互に来てくれていた娘たちが担当してくれた。

 

完治寛解した時の思い出話にとでも思ってたのだろうか、当時は自作のお弁当と自分で作った晩ご飯を写真にして撮りためていた。

 

そんな生活の中で僕が彼女の立場で考えて行ったことが温泉に連れて行くこと。

自宅はマンションであっても南面以外に全て窓を持ち、北面には大きなルーフバルコニーがある開放的な空間。

外を眺めて気晴らしが出来る環境にはあるとはいっても思うように自分の体をコントロールできずに終日家の中にいると気分は滅入るはず。

 

家内がリュウマチになったことを姉に伝えた際も病気がちで闘病生活の長かった姉は、自分の経験から憂鬱な気分になることをとても心配して僕が休日の時は出来る限り連れ立って外に連れていき気分転換をさせてあげるようにとのアドバイスをもらった。

 

 

 

それと主治医からの温泉のすすめ。

実際彼女はお風呂に入れてあげるなど体を温めるとそれまでの強張りが緩み体が楽になると話していた。

主治医は長い診断の経験などから科学的な根拠はなくても温泉が身体の強張りを軽減させるのに一定の効果があると知っていたのであろう。

 

そこで極力温泉に連れて行くことを心がけた。

ただし彼女一人では湯船に入れない。だから貸切のお風呂があるか部屋にお風呂がある温泉、ないしは娘達と共に入るという条件での温泉を探した。

これが2014年の初春から始めたこと。

 

そして同年の4月からblogを始めている。

About meにはとあるSNSの制限される話題から開放された思い出玉手箱としてBlogを始めたと書いたが、その目的には家内との闘病生活記という見えない側面がある。

 

自分の美学として?それとも単なるカッコつけ?本音が言えない意気地なし?

まあなんでもいいが自分の努力度合いのお披露目でお涙頂戴話が苦手。

人様の苦労話には心打たれる、しかしこと自分となると果たして自分が経験していることがどれほどの苦労なのかという疑問がわく。

 

そんなことで2014年4月から始めたBlogは極めて一般的な自分の趣味や関心事、旅先での出来事が記されてる。

でもそんな記事を読み返すたたびに、その場面を思い浮かべるたびに自分にはBlogのテキストにはならなかったその時の事実が思い出される。

 

 

快晴の一日 浅草の桜を見た時。。。聖マリアンナ医大へ向かう時だった。

梅雨時 6月の伊豆の旅。。。身体の強張りが厳しくて温泉スパへ連れて行った。

上山温泉 古窯へ家族旅行。。。家内の好きな宿で娘達が介添えをして温泉に入れてくれた。

 

 

僕のBlogにはそんな仕掛けが、僕にしかわからない知り得ない仕掛けがあった。

ほとんどの記事からその時のイベントと共に家内の当時の病状が思い返される。

 

自分も決して強くない人間。

やはり家内と二人三脚でこの病と闘うと肚を決めていても、精神的に疲れることもある。

投げ出しはしないが運命を恨みたくなることもないといえば嘘になる。

 

そんな時にBlogを読み返した。

そうすることで今までの僅かながらの努力でもその軌跡を見ることができた。

 

 

それが時に僕自身の救いになった。

 

 

 

リュウマチ Ⅳ

オランシアを投与し始めてから約半年が経過した2014の秋、ちょうど発症してから約一年が経過した頃、彼女の病状は安定しだした。

 

生物製剤の投与から数回は炎症の項目が著しく改善しその他の項目も緩やかに正常値を目指していたがその後この変化が安定しだした。毎月の検査でも項目によっては改善するも他の項目では僅かながら数値が悪化するという状況になった。

 

しかし炎症の減少、つまり痛みがなくなったことにより彼女は筋力の衰えをカバーすることと身体を慣らすことを意識して毎朝ベッドの上でできる範囲でストレッチ運動をするようになった。

 

これには多少なりとも自分の影響がある。

なぜなら5時半の起床から家事に勤しむことになる前の自分の朝はシャワーを浴びる前の筋トレ&ストレッチが日課だったからだ。

 

その頃は彼女が朝食や僕の出張のない日の弁当作りをしながらその姿を見ていて、時間的に余裕があると見よう見まねで僕と同じストレッチをしていた。

それを思い出したのも一因のように感じた。

 

それまでの数ヶ月間をおおよそ身体を休めることだけしかしていなかった彼女の体力は予想以上に落ちていた。

温泉に連れていてもお風呂から上がるとずっと横になっていたし、介添えで手を繋いで外を歩いても歩く速度が僕の半分以下のスピードで自分にとってはスローモーションで動くことを強いられているようだった。

 

そして歩ける時間も当初は15分が限界で、それを過ぎるとすぐに座れる場所を探した。

 

車の助手席に座っている時は疲れはないようだったが同じ姿勢でいると身体が固まる感じになるようで定期的に何度か姿勢を変えた。

また僕の車は車高が低いタイプなのでその乗り降り、特に降りる際は同一姿勢で固まった身体とあいまって一人で降りることは出来なく僕が介助した。

あまりに辛そうなのでSUVなどの座高が高めの車種への買い替えすら考えたほどだ。

 

休日ごとに伊豆や箱根の温泉に出かける事が出来るほどの環境になかったので近場で温泉を探した。面白いもので首都圏にも幾つかの天然温泉がある事を知った。

しかし絶対条件の貸切があるところは限られていたがその条件を満たす温泉を見つけたので何度かはそこに連れて行った。

 

我が家の玄関からリビングの端までおよそ13mある室内のレイアウトは足の筋肉の強化を兼ねた室内の掃除に好都合だった。

往復で26m、10往復で260m。彼女にとっては結構な距離になる。

ここを掃除を兼ねてクイックルワイパーを持ちながら何往復かするようだった。

 

この軽度の運動は長期的にみると大きな効果を上げた。それを確実に実感したのは2014年の年末だった。

 

それまで我が家の年末年始は次女が社会人になるのを待つようにして家族四人で海外で過ごすことにした。記念すべき家族四人揃って初の海外旅行はバリ島だった。

この旅行があまりに印象的でそれまで海外といえばリゾート地といっても先進国しか選ばなかった自分にアジア圏での魅力を発見させてくれた。

 

そこでプーケットセブ島と東南アジアの有名リゾートを訪れる計画をした。バリの翌年にはプーケットで年末年始を過ごし、その翌年はセブ島の予定だったが手配の遅れから沖縄になってしまった。

そこで次の年こそと思っていた2013年に彼女がリュウマチを発症してしまった。

 

この段階で長時間の移動は無理になった。それどころか年末年始恒例の家族旅行すら実行できるかの瀬戸際に立たされていた。

ただ家内自身もその旅をとても楽しみにしていたこと、それと車での移動であればあまり苦痛を感じないことなどを考えて近場の伊豆を恒例の家族旅行先にした。

幸いに家族旅行なので娘たちが家内の介添えを担ってくれる、そんなこともありなんとか旅行をすることができた。

 

ただこの時は初日が旅館で和室だった。

寝具は布団だったのだが家族の助けがあるといえども寝起きにあまりに負担があるというので苦肉の策で座卓の上に布団を敷いてベッド代わりにした。

しかしオランシア治療を始めた2014年の年末は長距離移動が無理という状況に変わりはなかったが同じ伊豆で過ごした年末年始の旅で畳の上での布団も問題 なく、何よりも出かけた先々で車の中で待ってるということが少なくなりその後疲れて動けないということも少なくなっていた。

 

似たような条件の旅での彼女の行動の比較から検査の数値以上の、彼女自身の「体の持つ力」が回復してきていることを強く感じた。

同様のことは普段離れて生活している娘たちにはより顕著に感じたようだった。

 

 

 

そして年が明けた2015年の1月のある日に彼女がオランシア投与を止めることを切り出してきた。

僕はじっくりとその話を聞いた。

理解は出来たが不安を払拭できなかった。

 

それはやはり生物製剤を止めることによる病状悪化への懸念だ。

検査数値は僅かながらいい方向に向かいながら安定してる状態だった。

自分にはそれがオランシアを投与しているからということ以外に理由が見つからなかったからだ。

 

しかしオランシアを投与してからの数日間の倦怠感に変化はなく逆に身体が正常に近づいてきている分、この倦怠感に耐えきれなくなっている様子も見受けられた。

 

主治医の意見を聞いてみた。

主治医はもう少し様子を見てからでもいいと思うが最終的には本人の意思とのこと。

結論はそうであろうが大切なのは主治医の主観と思えた、つまり様子を見るべきが重要と自分は感じた。

 

そこで主治医に一度止めた生物製剤の再投与での効果の実例を尋ねるようにいった。

主治医の見解はケースバイケースとのこと。

再投与で効果が出た場合もあるしそうじゃなかった場合もある、その場合はそれまでとは違った生物製剤を投与して病状の変化をみたと。

 

残念ながら想定内の回答だった。

そもそも生物製剤が必ず効果を発揮するという保証などどこにもない。

だからある生物製剤を投与して半年ほど様子をみて効果がないなら違った生物製剤を使う。この繰り返しで患者にあった生物製剤を見つけるという流れだから、家内のように初めてでしかも一回目の投与から明確な効果が現れたということ自体、稀なケースだったと思える。

 

果たしてこの幸運に背を向けていいのだろうか。

僕は悩んだ。

 

しかしいくら悩んでも所詮は当事者以外の医学に無知な人間の思い。

ここは賭けるしかない。

治療方法は本人の意思を尊重するとしたはずだ。

 

ここで自分はもう一つ言い聞かせないといけないと思った。

彼女の意思に従って生物製剤の投与を止めて仮に病状が悪い方向に向いたとしても決してそのこと責めないこと。

これだけは肝に銘じて言いきかせた、そこでも肚を決めた。

 

そして2015年の1月、オランシアの投与を止めた。

 

 

 

リュウマチ Ⅴ

不安を抱えながら生きるのは辛い。

 

彼女の意思でリュウマチに劇的な有効性を発揮していた生物製剤のオランシアの投与を2015年になってから止めた。

思えば投与期間は1年弱だった。

 

いつ悪化するかもしれないといういいしれぬ不安と、それをおくびにも出してはいけないという葛藤の中での日々だった。

今まで以上に彼女の一挙手一投足に過敏になっていく自分を感じていた。

 

そして2月の定期検診を迎えた。

生物製剤を投与している頃は午前中に検診、午後に薬の投与と丸一日かかっていたがオランシアの投与がなくなると検診だけだったので午後からの二時間ほどで済んだ。

 

気がかりでしょうがなかった検査結果をなるべく普段通りの感じで尋ねてみた。

彼女は診察結果のプリントを見せながら僅かながら数値結果がいい方向に向いていると笑みを浮かべて話した。

 

心から安堵した。

 

僕は周りから驚異の五十代とみられている。

そんな今の自分から想像もつかない病弱だった僕の幼少期を家内ですらよく知らない。

身体的に弱く偏食で病気がちの幼少期だったから健康であることの意味、それがいかに幸せであるかはわかってる。

ましてや幾多の病との戦いだった両親の介護を通じてその意味合いの深さへの理解はこれ以上ないほどであった。

 

だから幸せの土台である健康にむけて、生物製剤を止めた今でも彼女の体が僅かでも快方に進んでいるということはこの上ないほど嬉しかった。

 

人は思いの奴隷ともいわれる。

人間はなりたい、願っている、念じている、思っている通りの人生を歩むと。

 

そこにはなんらの科学的な根拠はない、見方によっては情緒的な教えとも受け取れる。

しかし人類の歴史は想像とそれを現実化してきた歴史ともいえる。

つまりイメージの限界が現実の限界。

 

余談になるが物理学、宇宙学の世界では20世紀に入り目覚ましい進歩を遂げた。

アインシュタイン一般相対性理論で目に見える世界の現象を解き明かし、目に見えないミクロの宇宙にはシュレーディンガー始め多くの天才物理学者が量子力学相対性理論が通用しない全く新しい振る舞いをする世界を見つけた。

 

さらにこの偉大なる二つの発見を纏めて神の方程式、森羅万象を全て解明する統一理論にむけた研究が進んでいる。

 

今現在この統一理論に大きく貢献しそうなのが超弦理論

粒と考えたいた素粒子の実態は揺らぐ紐のようなものであるとの理論。

 

どうもブラックホールの謎を解き明かすことは宇宙の始まりを解き明かすことと同じ意味を持つらしい。

相対性理論ではブラックホール生成の一歩手前まで解明できるが特異点には到達できないらしい。しかしこの超弦理論を持ってするとその先にも進める、つまり特異点に到達できるようだ。

 

自分達は縦横高さの三次元を認識している。

これに時間を入れて四つの次元。アインシュタインは空間と時間は同じとして時空間とした。

 

そしてブラックホールの謎を解明する鍵となった超弦理論。これを正とするには6次元が必要なそうだ。

これらを合計すると10次元。

 

そしてエネルギーには四つあることもわかってる、重力、電磁気力、強い核力、弱い核力の四つ。

この中で重力だけが異常に弱いことが世界の物理学者を悩ませてきた。

 

考えてもみてほしい。

金属のクリップは地球の重力で机の上に収まっているが、これにクリップ並みに小さい磁石を近づけただけで簡単に持ち上がる。

つまり地球の質量が持つ力をわずか数センチの磁石が上回ったことになる。

 

この問題を解決すると有望視されてるのがブレーン理論。

それによると10次元を正とするともう一つ幕のようなものが必要となるらしい、森羅万象はすべてこの幕で起きていること。

つまり自分たちも地球も銀河系も大宇宙もこの新たな幕、11次元目の幕の中にあるらしい。

 

何せ似非理系の自分、多少の理論整合性に欠けるのは多めにみてもらいたい。

 

 

 

と長すぎる余談になってしまったが科学的といえども今までの常識からは想像もつかない非科学的はことが科学的に証明されつつある。

 

思わずアインシュタインの言葉を思い出した、「常識とは我々が若い時に受けた教育の偏見」

 

自分の家は信仰心が深く幼い頃から毎朝神棚とお稲荷様への参拝と仏壇への合掌が勤めだった。

三つ子の魂百まで。

この信仰心は消えることなく同じ事を今でも続けている。

 

そして祈り、願う事はその時々で違うが家内が病を発症してからは最初にその病の完治寛解を祈り続けてきた。

その行為が彼女の快方になんらの影響を与えたとは全く考えられないとはいえない。

 

SNSで知り合いブログも読ませてもらっている知り合いの記事にこんな事があった。

彼女の学生時代からの親友が若年性認知症になってしまったと。

その親友はとても聡明でご主人は仕事の出来る大手商社の出世株、しかし連れ合いの発病を機に彼女の介護の生活に入ったらしい。

 

自分はこのブログにコメントした。

出来る限りの時間を彼女と共にしてあげて想う事、願う事、祈る事が大切なのではと。

 

奇しくもその時、病弱な姉が病に倒れて入院している最中であり自分がリュウマチを患った家内を介護している最中だった。

だから若年性痴呆症を発症した彼女の親友のご主人の心境は痛いほどわかった。

そして詳細は知る由も無いが連れ合いの介護を主とする生活を選んだそのご主人の決断に、仕事を持つ身としてのある種の感慨と人間としての成功を選んだ事へ敬意を表したいと思った。

 

薬を止めて自然治癒力を信じた治療に取り組んだ彼女に心がけてした事は笑顔の絶えない家庭生活。

元来いたずら好きで面白いことが好きだった自分。

結果笑い声のある家であったことは間違いないが無意識のうちに彼女の病への不安から一人考え込むことがなかったといえば嘘になる。

 

薬の力を断ち切った今、彼女の自然治癒力を上げるために自分に何が出来るかを考えれば見には見えない願うこと、祈ること。

そしてもう一つ心を軽やかにしてあげること思った。

痛みも減少し身体の強張りも薄らぎ基礎体力もだんだん上がってきてる彼女に内面からのフォローアップを意識した。

 

彼女は母親譲りで根の部分は心配性なのはわかっていたが、自分に引きずられたのか本来の素直な性格がそうさせているかわからないがどこかいつもにこやかな印象がある。

そこに僕が少し意識して楽し罪にならないいたずらを仕掛けてますます笑顔の絶えない時間を多くするようにした。

 

結果は予想通りだった。

 

そんな笑顔のある生活と必ず治るという彼女の信念、僕の祈りの相乗効果は次の定期検診でも上々の結果を示してくれた。

 

 

 

リュウマチ Ⅵ

毎日生活を共にしていると相手の変化になかかな気がつかない。

しかし過去を振り返り今と比較するとその変化に驚きを隠せないこともままある。

2013年の晩夏に発症した家内のリュウマチの快方もそうだった。

 

思い返せば寝返りを打つのも辛いといい腰を曲げることもままならずペットボトルのキャップを開けることなど到底無理だった2014年の1月、2月。

そして生物製剤を投与してから劇的な改善がみられた5月、6月でも階段を上り下りすることは不可能だったし室外の歩行では自分の介助を要した。

その後生物製剤の力を借りながら僅かながら病状が快方に向かうと共に軽い運動で身体に負荷をかけながら基礎体力を少しづつ取り戻したのが2014年の冬。

翌年からは薬の力を借りるのをやめるという大きな決断をして自然治癒力に運を委ねた。

 

その結果彼女は最も症状が重かった2014年の2月ごろからは想像も出来ないまでに元気を取り戻してきていた。

 

それまで夕食後はすぐにベッドに向かっていたのが食後の珈琲に付き合って今日の出来事を話したり、一緒にテレビを見たりということが出来るようになっていた。

 

またそれまで手が届かなかった上段の食器棚の食器を下したり床に落ちたものを自分の手で拾えるようになっていた。

 

一緒に歩く時も不測の事態に備えて手を繋ぐことに変わりはなかったがその歩速の早さに気がついたとき驚いた。

それまで僕に強いてきたスローもションではなくいつの間にやら僕の無意識の歩く速度の下限になっていた。

 

そして3月ぐらいから週に何度かは夕飯の準備をするようになった。

当初僕はそのことに危惧を抱いていた。

自分が料理をするからその運動量と行動範囲の広さがわかっている。

 

料理は結構な運動量だ。

立ちっぱなしでしかもしゃがむ時も伸びを要する時もあり、かつ時間勝負という料理の一面を考えるとその運動には俊敏性が求められる。

 

確かに以前に比較するとにわかに信じがたいほど元気になってきたのはわかる。

しかし料理はまだ早いのではないかと感じていた。

 

しかしそこは本人の意思を尊重した。

人間やる気が大切だ、まず気力があってその力が体を動かす。

限界体力に関しては彼女自身が一番よくわかってるはず、そこで無理のない範囲でと付け加えて彼女の思うようにさせた。

 

最初は週に一度だったが二週目には二度に増え、三週目には三度とどんどん増えて最後には月曜から金曜までの食事を用意してくれるまでになった。

僕はこの晩御飯の準備をし夕食を共にした後の彼女の行動に注視した。

 

特にすぐに休むわけでもなく食後の時間を共にしていた。

どうやら自分が思っている以上に彼女の体はリュウマチとの上手な共存をしているようだった。

 

病と共存という表現に疑問符がつくかもしれない。

しかし父母の病の介護をしながら感じたこと、それは病を克服するということは見方を変えると上手に共存するということのように感じたからだ。

 

物事には訳がある。

これは自分の信条の一つでもある。

 

病を発症するというのにはそれなりの訳があると思う。

その訳は本人が好むと好まざるに関わりないし、時に何故ということもあるかも知れないし何故すらわからないこともあるだろう。

 

しかし世の中は因果律、結果にはなんらの原因があると考えた方が自然だ。

科学的に考えれば原因と結果は作用と反作用ということになろう。

 

生身の人間が五十年も生きてくればどこかになんらの支障も生じてくると思う。

森羅万象は黎明期、成長期、安定期、衰退期のサイクルから逃れることは出来ない。

日本人の平均寿命から考えても五十代後半は衰退期の入り口とも捉えることが出来る。

 

無論ないに越したことはないが目が見えにくくなったり歯が弱くなったり骨がもろくなったりの加齢による障害が出始める頃だろう。

身体に経年劣化の症状が出ればそれが引き金になって他の病も併発する可能性も大きくなると思う。

 

ここからは考え方だ。

医学の力で治せるものは勿論そうする。しかし治ることは前に戻ることを意味しない。

であれば現在の医学で出来た最良の状態を正として、あとはその状態といかに上手に付き合っていくかだと思う。

 

だから結果家内もリュウマチと共存しながらそれが最小化するように心がけた生活をしているのだと思う。

 

そんな彼女は4月のある日にこんなことを言い出した、お弁当も朝ごはんも作ると。

流石にそれは拒否した。

いくら元気を取り戻していたといっても完治寛解には至っていない。

それにもう3ヶ月が過ぎたとはいえ生物製剤の投与を止めて、僕的にはまだ3ヶ月だ。

 

何より朝が早い。

今でもまだ朝の体の強張りがありワンツーと健常者が起きるようにはいかない中でそれはあまりにも彼女の身体に負荷を要することと思えたからだ。

 

この提案を拒んだ翌朝、僕はいつも通りに5時半に起床してキッチンに向かったがそこにはすでに家内がいた。

本当に平気と笑顔でいう彼女の思いと熱意をかき消すことは出来なかった。

 

それからというもの彼女は毎朝僕のお弁当を作ってくれるようになった。

愛妻弁当と勘違いされていた自分で作った弁当が本当に愛妻弁当に変わった2015年4月の出来事だった。

 

僕が抱く一抹の不安をよそに彼女は日を追うごとに元気に近づいていった。

それは定期検診の結果にも表れ続けた。

 

リュウマチ 2にも書いたが2015年の7月の検診結果を見て主治医がいった。

多くの場合生物製剤は投与の半年後ぐらいから徐々に効果を表すのに家内の場合初回の投与から目を見張る有効性があった。

しかも1年弱の投与で製剤投与を中止した場合症状が悪化する場合も多く見受けられ、その後生物製剤を増量して投与するなどのケースがあったが今回は稀、と。

 

その結果家内は月に一度の定期検診が二ヶ月に一度と変更になった。

この嬉しいお知らせは7月9日の診断でもらった。

 

諸行無常の世にあって同じことは二つとないらしい。

となれば状況は常に上か下、陽か暗。

 

 

 

どうやってみても家内のリュウマチは快方に向かってる。

それは検査結果でも本人の動きからもわかる。

 

2013年に晩夏にから始まった家内と二人三脚での彼女のリュウマチ克服への旅。

まだ終わった訳ではないが二年をかけて山場を越した感はある。

 

この旅は静かに生活を一変してたが救われたのは幸か不幸か自分の仕事上のポストが変わったこと。

それまではプロジェクトの最前線で総括しなければいけない立場にあったが2014年の人事で経営企画をする部署を担うことになった。

つまり出張も少なく対外的な交渉とも離れデスクワークがその主体となる業務になったことで退勤時刻がある程度コントロールできるようになった。

この変化なくして仕事をしながら彼女を介護することは困難を極めただろう。

 

相変わらず休日は約一週間分の買い物をすることやペットボトルや紙パックの飲み物は僕が開封しておくこと、ウォーターサーバの水のような重量のあるものは僕が担うことに変わりはない。

しかしそれ以外は2013年の夏までの生活サイクルに戻りつつある。

 

この二年間振り返ると長いようで短い二年だった。

早朝に起床し朝食、昼食と自分の弁当を作りゴミ出しをしながら出社、帰宅時に買い物をして晩御飯を作りあとかたずけをしてから家内の入浴を手伝い寝かせてあげる。

休日は買い物をして普段できない家事をしてから気分転換で彼女を外に連れていき出先では彼女の介護。

 

側からみると大変という表現しか出ないように感じる。

しかし自分ではそう感じたことはなかった、彼女の発病の運命を嘆きそうになったことを否定はしないが一変した生活を恨んだことはなかった。

 

それは多分両親の介護生活での経験がそうさせたのしれない。

 

今、まだ旅の途中だが幸せを感じている。

幸せとは心模様の一つ、決して状況や状態を指すものではない。そして比較するものでもない。

 

これからも彼女の病が最小化するような環境作りを続けるし、今に感謝して今あるのがご先祖様をはじめとした自分とご縁のあった方々のお陰様と感謝の心を持って生きていきたい。

 

 

 

リュウマチ Ⅶ

9月17日は2ヶ月に一度の検診になった家内のリュウマチ検査の日だった。
通い慣れた道で車を走らせながら聖マリアンナ大学附属病院に向かった。

彼女は受付を済ませると体調質問への回答記入、その後それに基づく簡単な問診、それから血液の採取をはじめとする各種検査の後、主治医の診察というのがここでの流れだった。

この間約2~3時間。
僕は待合スペースで読書をしながら家内を待つのが常だった。

この日はことの外早く彼女が戻ってきた。
いつになく笑顔で歩いてきた彼女の口から出た言葉は、もう定期検診が不要と云われたということだった。
僕は再確認した、それは主治医がから云われたことなのか、そしてそれは寛解を意味しているのかと。

少し興奮状態にあったので畳み掛けるように質問してしまったが、このやや大人げない僕の態度をも許容できるぐらいの嬉しさだったことは彼女のにこやかな反応でわかった。

しかし主治医から寛解という言葉を聞くまでには至らなかったようだ。
思えば西洋医学ではリュウマチは不治の病の扱いだから、それも致し方ないように思う。
つまりいくら検査数値という客観的なデータが健常者のそれを示していたとしても、一度リュウマチという診断を下されてしまえば、医師から完治寛解問いう言葉は聞けないのかもしれない。

でも考えてみれば大切なことは本人の体調だ。
本人がリュウマチの症状を感じることなく日常生活を送ることが出来ていれば、何も完治や寛解という言葉を必要とはしない。

言ってみればそれはお墨付きのようなもので、ことの本質は本人の状態だ。

定期検診が不要ということは、体の状態を調べなくていいと同意だ。
つまり専門の医師から見ても病状は快方に向かい悪化の恐れがない、だからこそ検査は無用という判断を下したのだろう。

これは寛解という判断なくして下せないことだと思う。
帰りの車の中で二人、その意味をかみしめ心から喜んだ。

 

言葉には不思議な力が宿ると云われ、それを言霊と呼ぶ。

人生相談やカミングアウトの中でも、あの言葉で救われたとかあの一言が人生を変えたというフレーズを耳にするが、時として言葉は人の運命をも変える力を持つことがある。

9月17日に云われた定期診断の不要という主治医の言葉は、僕には深い安堵を、そして家内にはリュウマチとの戦いに打ち勝ったという自信を与える、正に言霊だったようだ。

その日以降の彼女の日常から、多分潜在的に抱えていたかすかな不安が消えたような気がする。
それまで自分一人で外に出ることなかった、出来なかった彼女が、自宅から徒歩で100mぐらいにあるスーパーに一人で買い物に出かるようになった。

勿論最初は僕に内緒で行い、何の問題もなく一人で往復できることが確かになってからその話をされた。
正直それを初めて聞かされた時は一瞬凍りつきそうになったが、彼女の説明を聞いているうちに落ち着き、何よりも元気な彼女が目の前にいるという事実が最大の安心感だった。

思えばマンションのエントランスまでは外廊下とエレベーターだし、外に出ると大きな交差点を過ぎそのスーパーがあり、スーパーにはエスカレーターもエレベーターも完備されている。

ただ‥
どこか心配性なのか彼女の行動には常に自分が付いていないと安心できなく、一抹の不安感を払拭できないでいたが、体力をつけるための運動の一環と云われてしまうと何も云えなかった。

お蔭様でその後、トラブルもなく彼女の「外での一人行動」は続いている。

 

 

 

そんな中、長女の入籍予定が11月22日と伝えられ、僕たち夫婦にその保証人の依頼がきた。

長女が結婚してする喜びと、結婚してしまう寂しさという感情は僕自身のこと。

結婚を認めた後の先方のご両親との顔合わせも済ませている状況で、感情に押し流されて保証人になることを渋るほど子供でもない。

 

そこで当日、婚姻届の保証人の欄に記名押印するために、家内と二人で彼女たちの住む梅ヶ丘のマンションに向かったが、その道すがら僕と家内のあいだでは年中行事の一つとなっている青山絵画館通りの銀杏並木の黄葉を楽しむことにした。

 

リュウマチが発病した一昨年はこの数十年続けている年中行事さえ忘れてしまうほどの心理的なパニック状態で、見に行くことはしていない。

昨年は病状もかなり良くなったので出かけたが、車を降りて一緒に歩くというまでには彼女の病状が回復していなかったので、車を降りることなく車内からウィンドー越しに青空と黄色く色づいた銀杏並木のコントラストを楽しんだ。

 

しかし今年は違った。

外苑前の青山駐車場は満車であろうことが容易に想像できたので、表参道と外苑前の中間ぐらいの青山通りに面したパーキングに車を入れてそこから歩いた。

 

昔からあるオリンピックを懐かしく眺めながら、アレッッシーショップに興味津々で南青山三丁目の交差点へ。

その交差点からは僕が青春時代からとても好きなビルだったベルコモンズが目の前にそびえていた。

でも今は閉館していて、多分取り壊しの運命を待っているのだろう。

 

余談になるがこのベルコモンズは僕も家内も大好きだったビル。

どこかヨーロピアンな香りを醸し出す店内は吹き抜けになっていて、回廊を囲むように小粋なテナントが並んでいた。

そして確か鈴屋が運営していたこのベルコモンズは入り口でいつも鈴の音が流れていて、入館前の期待感をその音が表してくれているようだった。

 

何階だったか忘れてしまったがcaravanコーヒーが入店していて、二十代の頃はよくそこで豆を手に入れていた。

当時はUCCKeyの二大メジャーの陰に隠れて、やや知る人ぞ知るという感の強かったcaravanコーヒーだったが、そのマイナー度合が好きだった。

 

そんな懐かしのベルコモンズを過ぎると、僕が約1年ほど直営店の店長をしていたショップが入店していた青山サンクレストビル。

蕎麦の増田屋も王様カレーも健在で、この界隈に来ると社会人一年生でアパレル業界に身を置いていた当時のことを懐かしく思い出す。

 

さて、前置きが長くなりすぎたが、この青山通りの駐車場から絵画館通りの銀杏並木へのお散歩は、距離則で調べてみると片道1.kmで徒歩1566歩、23分と出た。

往復換算で2.km、3132歩、46分のお散歩となり、家内にとってはかなりハードな、いや発病後初の長時間にわたる運動だったと思う。

しかし、その後も彼女は車中で疲れも見せず僕と会話をしていた。

 

確実に健常者に向かって体力が回復してきていることをあたらめて感じた。

 

ある日家内が小指の曲がりが少しきになると夕食時に漏らした。

見てみると確かに一直線にはなっていないように見えた。リュウマチは骨を変形させる。 痛みはなくなり体力も戻ってきていることは本人が一番わかっていることだが、こと骨の変形等に関しては検査をしないとその症状も原因もわからない。

 

そこでもう一度聖マリアンナ大学附属病院で検査をしてもらうことにした。

11月26日、有り余る有給休暇を使い家内を車に乗せて連れて行った。

 

数ヶ月前まで定期的に通っていたこの病院での診察のルーチンに沿って健康状態の記入から始まり、各種検査を終えて主治医との問診が終えるまでに約2時間半ほどだった。

 

検査結果は大半の検査項目でもうリュウマチとは云えない状態にまで回復しているとのこと。

特に骨に及ぼす検査での数値にも悪化はなく、健常者の範囲と云えるまでにきているらしい。

家内が気にしていた小指は加齢による軟骨の擦り減りからくるもので、年齢とともにおきる自然現象の一つで痛みなどがなければ何の問題もないと説明を受けたらしい。

 

今日の検査結果のすべてに二人は喜びとまた一つ深い安心感に包まれた。

思えば僕も家内もリュウマチが引き起こす症状に過剰反応していたのかも知れない。裏を返すとこの病はそれほどまでにやっかいな病気とも云える。

 

リュウマチ治療において完治寛解の言葉は出ないことは承知していたが、検査結果の数値が健常者の範囲にとても近づいているということは「みなし寛解」と解釈してもいいと思う。

 

あと二日で今年も師走になる。

この年の年の瀬にほぼ健常者に戻った家内と年末年始を迎えることが出来る。

 

感謝という言葉以外に見つからない。