定年退職

本日、2024年3月31日をもって15年年間の勤めも終わり、定年退職となりました。

長いようで短い15年でした。

この機会に、二十三年間の職歴を振り返りたいと思います。

 

 

社会人一年生 ファッションアパレル

生家が呉服商で、僕はその跡取りとして、幼い頃から育てられました。幼稚園児の頃から、商売人としての家訓を、意味もわからないまま復唱していたけことが思い出されます。
当時は何もわからなかったのですが、今の自分の価値観、生き方に、それが大きく影響していることも自覚してます。

そんな中、社会人一年として選んだのは、両親が熱望した糸へん業界に身をおいたことは間違いないのですが、日本の伝統美の和服ではなく、英国の歴史を継承する洋服でした。

会社は神谷町にあり、そこから毎日銀座、六本木、渋谷、新宿とメンズショップを回り、週に一度は首都高を飛ばして横浜にも出掛けてました。

ここでの入社時の説明での勤務時間は9時出勤の18時退勤だったのですが、その通りだったのは出勤時間だけ。
毎日が終電ギリギリまでの残業で、時には終電がなくなり車で自宅に帰ったり、千葉市の部長宅に車で行き泊めていただいたり、会社に泊まり込んだり。。。

人生で一番働いたのは、24歳の6月。
一ヶ月間タイムカードの退時刻が毎日翌日にずれていて、通算の残業時間が200時間を超えていました。ほぼ毎日会社に泊まり込んでいました。

今であればブラック企業どころじゃない、暗黒企業。

でも時は昭和、何でもありーなの昭和は、それもありのゆるい?!時代だったんです。

ただ僕はこの当時の経験に感謝してます。あの経験があったから、数時間程度の残業なんて残業の意識がない(笑)

 

「働く」ことは「はたを楽にすること」との幼い頃からの母の教えの意味に通じるものを感じました。自分が長時間汗水流した分、誰かが喜ぶ、はた(他)を楽に(たのしく)することが出来てると。

体が元気に動くうちは、まだまだ「はたを楽に」したいんですけどね。

 

 

 家業継承

多分当時としては比較的高齢出産で生を受けた僕。その分自分の成長に反比例して、両親、特に気丈だった母の発言に強さを感じなくなり、父母ともに体も小さくなったと感じた時、アパレルメーカーを退職して家業を継ぐことを決心しました。

そこからは宮使いではなく、一国一城の主人になりました。

 

 

自流対応でブティック開店

着物が日常着だった時代はとっくに過ぎ去り、冠婚葬祭のセレモニーや茶道華道をされている方の趣味の着物になっていた時代に、アパレルメーカー時代の経験と、パリにファッション遊学経験のある家内の経験を活かすべく、ブティックを開店させました。

時代にも合って、かなり繁盛しました。

 

 

時代を読んで外食産業に進出

低空飛行の呉服店、順調なブティック。結果プラマイで増加だった事業を、より拡大させるために新たなジャンルでの企業を求めました。

それが外食産業のサーティワンアイスクリームでした。

 

 

経験の集大成 ITで起業

 

 

家業を家内に任せて、ITで企業を決意し立ち上げたのが、西暦2000年。

Yahooの上場が話題になり、雨後の筍のように楽天市場やZOZOが産声を上げた時期でもあります。
このIT産業で10年間夢を追い続けました。

 

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50歳にして宮使いへ

そして50歳から15年間、社会人一年生の時と同じように宮使い、サラリーマンに戻りました。

ここでは事務、経営企画室、広報で電産化、つまりIT、いやICT、いま一番ホットな呼び方としてはDX、デジタルトランスフォーメーションということになるんでしょうが、ことデジタルに関して知識と認識の足りないトップとの交渉で腐心しました。

 

紆余曲折

呉服屋の跡取りとして生を受け、そのための商いの教えを幼い頃から教わり、経営学部を卒業し、アパレルメーカーに勤めて。。。
そこまでは多分、両親の描いた未来予想図をはみ出すことはなかったと思います。

 

しかし諸行無常 世の中は変わります、変わり続けます。
アパレルメーカー勤務から家業の呉服屋、そしてブティック、さらにサーティワン。満を持してITで企業。

その後社会人一年生当時と同じサラリーマンになり、今日定年退職しました。

 

 

正直仕事は、まだややりたいし、やれるの思いが強くあります。
しかしそこは神のみぞ知る。。。ご縁があれば希望が叶うでしょう。

当面明日からは無職になります。
ただそうなると、それはそれで多趣味な僕なので、やりたいことが一杯。

 

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幸せとは心模様の一つ。
これからも家内と二人、笑って幸せを感じる毎日にしたいです。